善人を目指す人は善人もどきにしかなれない

こんにちは。いい人がいい人のまま幸せに生きる知恵と勇気を届ける学び舎『玄徳庵』のこうめいです。

じめっとした日が続いてますが、皆さん体調の方お気を付けください。近年本当にこの時期の大雨は、各地に爪痕を残す状態で…川沿いの方はもちろんですが、私も含め、山の近くに住んでいる人も川が遠くても油断せずに気を付けて過ごしましょう。

ということで、毎日天災の話ばかりになってしまってますが、今日も私のコラムをちょこっと書かせていただきますね。

善人を目指す人は善人もどきにしかなれない

善人を目指していた時期が私もありました。人に喜ばれる人間でありたいと、自分を犠牲にして頑張り続けたんですが、あるときそれが間違っていることに気が付かされたんです。

善人を目指す人は、「人に嫌われたくない」「ほめられたい」という気持ちが強いので、自分を嫌わないでくれる人のところに目が行くようになります。

そしてそういう人はたいていテイカーで、善人になりたい人の気持ちを利用して、その人たちに間違った正義を執行するように誘導していきます。

今世の中の混乱の原因の一つが、私は、「善人になりたい人」が「それを利用して利益を得たいテイカー」に利用されて踊らされているところにもあると考えているんですよね。

え?そんなことはない??善人は誰から見ても善人で、悪人は誰から見ても悪人?本当にそう思いますか?

でもね。こういう事例を思い浮かべてください。

鼠小僧という泥棒が昔いました。彼は、権力者の家に入り盗みを繰り返したことから義賊として扱われ、物語などでは盗んだ金を貧しい人にばらまいたなんて話が作られた人です。

今回は物語の方を信じて「権力者からお金を盗み、貧しい人にばらまいた盗人」という設定で考えます。

さて、そんな鼠小僧を善人とみるか?悪人とみるか?

盗まれた権力者から見れば当然悪人ですよね。でも、貧しい人たちから見れば善人なわけです。

このように、善人か悪人かは、誰の側に立って物を見るかで変わるので、本当の善人にはなれないんですね。善人を目指すということは、逆側から見れば悪人になることですから。

つまり善悪は、周りからの評価でしかないわけです。

ではどう生きればいいのか?

それは私は、「自分に素直に生きる」ことだと思ってます。

誰かに好かれたいとか、嫌われたくないとか、褒められたいとか関係ありません。

自分がこれがいいなと思ったことを貫き、自分が間違ったことだと思ったことはすぐにやめる。

周りは損得で、いろんなアドバイスをするかもしれませんが、参考にはしてもそれには流されてはいけません。

そのうえで、自分以外の人も素直に生きる権利があり、それを尊重するのが大事なんだ。ということさえしっかり胸に刻んでおけば、それがあなたが本当にしたかった「いい生き方」になるのだと思います。

そう考えていくと、善人ではなく「素直な人」になること。これが私たちの目指すゴールになるんではないでしょうか?

ということで今日はここまで。

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