こんにちは、無理せず起業塾、塾長の阿部です。
さて、昨日から始めたこのちょっと法話チックなブログですが、これ実は、アダルトチルドレン専門の行政書士さんからの依頼を受けて書かせてもらってます。
私の元行政書士のお坊さんという経験から、『自分のお客さんたちの心が少しでも休まるような話をしてほしい』という依頼を受けて書かせてもらってます
本来私は、あまりネット上でこういう話しないんですが、せっかくなんで、何回かでこういうお話もしてみようかなと思ってます。
さて、「いつまで背負ってるんだ?」という禅のお話があります。
このエピソード本ごとに違う人が言ったことになっているので、誰が言った言葉なのか?そこもよくわからないエピソードなのですが、それらすべてストーリーは一致してます。
1、いつまでお前は背負ってるんだ?
ある時2人の修行僧がいました。
その二人が、川を渡ろうとするときに、傍らに川を渡れずに困っている女性がいました。
そこで修行僧は考えます。『お坊さんは女性にかかわってはいけない。触れちゃいけないから助けてあげられないな~』
そう思って困っていると、もう一人の修行僧が、『向こうの川まで背負いましょうか?』と言って、女性を背負って川の向こうまで渡ってしまったのです。
その女性と別れてしばらくして、その行動に怒りを感じた修行僧は、背負ってあげた修行僧に
『おまえ!女性に触れるのは、ルール違反じゃないか!』
と叱ったそうです。すると、女性を助けてあげた修行僧は一言
『なんだ?お前はまだあの女性を背負っていたのか?俺はとっくの昔に、川のところでおいてきたぞ?』といったとされています。
2、はたして女性を背負っていたのは、どちらだったのか?
お話はここまでなんですが、わかりますでしょうか?
修行僧は女性と関わってはいけない。これはルールとしてあります。それは修行僧が自分の執着心を捨てられなくなってしまうのを防ぐためです。
あの女性が好きだの、この女性がどうのだのと考えてしまうと、そこに執着が生まれて、囚われて自分自身を縛るつけてしまうわけです。
いわゆる恋は盲目というやつですか?あんな状態になってしまうかもしれませんし、そこまでじゃなくても、それに近い感情を持ってしまうかもしれません。
でも、「女性だから」と助けなかった修行僧と、「女性も男性も関係なく困っている人だから」と手を差し伸べた修行僧では、当然「女性ということに」とらわれていないのは手を差し伸べた修行僧です。
物理的に背負ったのは、人助けをした修行僧。でも、心の中でとらわれ背負い続けていたのは、手を貸さなかった修行僧の方なんですね。
3、集団生活ゆえに形式は大事だが、それだけにとらわれると苦しみが広がる
実はいろんなことに言えますが、社会で生きていく以上、最低限のルールが必要です。
本当はそんなものも、常識も気にせずに生きていけるのがいいのですが、人がたくさん入り以上は全員がそうしてしまうと秩序が保てません。
だから、私は形式が不要だとは言いません。
ですが、今、あまりにも表面的な形式を整えることばかりに労力を割き、その形式は何のために作られたのか?そこを考えることがない人が増えてきました。
そうなると、たとえば、学校生活でも会社生活でも、ルールにのっとって、言われたことだけをやればいいので、確かにその生き方は楽です。
そして、その生き方に満足ができているのであれば、私はそれが幸せと考えています。
でも、それに何か違和感がある。不満があるから、人の心は徐々にすり減ってしまうんです。
そうなるくらいであれば、一度立ち止まって、今あなたがしていることは、いったい何のためにしているのか?もう一度問い返してください。
あなたはもしや、女性に触れてはいけないというルールに縛られ人助けをできなかった修行僧のように、自分の心をルールで縛り付けていませんか?
しかも、そのルールを勝手に自分自身で作り出してはいませんか?
ルールがあればあるほど、人の心は疲れていきます。手放せるところは手放す。それでいいのではないですか?私はそう思うんですがね。
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